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第7話 断罪の代わりの椅子②

作者: なつめ
last update publish date: 2026-07-13 21:30:37

 時間はゆっくり過ぎるようでいて、実際には容赦がなかった。身支度を直し、髪の乱れを少し整え、手袋をはめなおし、呼吸を整えようとしているうちに、案内のための侍女が迎えに来る。

 東翼の小応接室は、昨夜の客間とは違う静けさを持っていた。

 大広間のような見せるための華美はなく、客間のような私的なやわらかさもない。石壁へ深い色の織物がかけられ、窓は小さく、高い。だが暖炉にはきちんと火が入っていて、赤い炭の下で薪が静かに燃えている。中央には低めのテーブルを挟んで椅子が二脚。その背後に、もう一脚。机ではない。問い詰めるための長卓でもなければ、立ったまま相手を見下ろすための間合いでもない。

 部屋へ入った瞬間、セレフィアはそれに気づいてしまった。

 椅子だ。

 断罪の場ではなく、座って話すための椅子。

 そのことが、かえって息を詰まらせた。

 ゼルヴァンはすでにそこにいた。今朝は外套を脱いでおり、濃い色の上着の上から細い銀の留め具だけが光って見える。立つ姿勢は変わらず無駄がなく、部屋の中でさえ風の冷えを少し残したような静かな気配をまとっている。

 セレフィアが一礼すると、彼はすぐに近くの椅子を軽
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    「戦の時も……」  慎重に、そう口にする。 「こういう夜が、あったのですか」 ゼルヴァンはすぐには答えなかった。 その沈黙は長くはない。だが火のはぜる音と風のうなりのあいだで、その数秒はひどく濃く感じられた。セレフィアは、自分が不用意なことを訊いたのではないかと、少しだけ息を止める。 けれどやがて、ゼルヴァンは目を伏せず、火を見たまま言った。「あった」  それから、一拍置いて。 「もっと悪い夜も」 その声の低さは変わらない。だが、いつもより少しだけ奥が暗いように聞こえた。 セレフィアは何も言わず、ただ待った。彼が自分から言葉を足すのかどうかもわからないまま。外では吹雪が鳴っている。小屋の中には眠る兵の呼吸がある。こんな夜に、もし彼が少しだけ過去へ触れるのなら、それはきっと大きな物語ではなく、欠片のようなものだろうと思った。 そしてその予感は当たっていた。「若い頃」  ゼルヴァンは静かに言った。 「補給が遅れた砦へ入ったことがある」 セレフィアは、息を詰めるまいとしてそっと呼吸を整えた。「雪が早かった年だ。地図の上では間に合うはずだった。紙の数字も、日数も、兵の足も」  彼の視線は火へ落ちている。 「だが現実は違った。雪は予想より早く深くなり、道は半分埋まり、荷駄は一度止まり……」  そこで、ほんのわずかに唇の線が硬くなる。 「砦へ着いた時には、すでに遅れていた」 小屋の中の空気が、少しだけ変わる。 セレフィアは問い返さなかった。「何が」と聞くのは、ここではあまりに浅い気がしたからだ。代わりに、彼が選ぶ言葉をそのまま待つ。「戦で死ぬ者は、刃や矢だけで死ぬわけじゃない」  ゼルヴァンの声は低いままだった。 「寒さで弱り、腹が減り、傷が塞がらず、眠れず、判断を誤る。そういう小さなほころびが重なって、人は死ぬ」 その言い方に、セレフィアは胸の奥がひどく静かに痛んだ。 刃や矢だけではなく。寒さ、腹、傷、眠れなさ、判断の誤り。帳簿や市場や薬草茶の中で、自分が少しずつ見てきた「小さなこと」の積み重ねが、ここでは命と直結するのだと、あらためて知らされる。「その時」  ゼルヴァンは続けた。 「守ると決めていたものを、全部は守れなかった」 全部は。 その言い方がかえって重い。誰を、何を失ったのか。名を言わないからこそ、却

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     夜半を過ぎる頃には、吹雪の音は少しだけ変わっていた。 弱まったわけではない。むしろ、風は相変わらず小屋の外を走り、時折、壁を打つ雪の粒が乾いた音を立てている。だが、吹きつける勢いの中に、最初のような荒々しい乱れが減ってきたのだろう。さっきまでは四方から無秩序に叩きつけられているように聞こえた風が、いまは一方向へ流れを持ち、長く低く鳴きながら屋根を撫でていく。吹雪が小屋を飲み込むというより、小屋の周りを大きな獣が何度も回っているような、そんな音だった。 小屋の中は狭く、火の匂いと人の体温がゆっくり混ざり合っていた。 炉の火はもう最初ほど勢いがない。太い薪が赤く崩れ、時折、細い青い火がその隙間からのぞく。火の上にかけていた小鍋の湯はとっくに下ろされ、いまは壁際の木杯の中でぬるくなっている。眠っている兵は二人。毛布へ半ば埋まり、疲れの深い者特有の、重く鈍い呼吸をしていた。もう一人は戸口のそばで見張りをしている。だが風の音が強いせいで、靴を動かす小さな音さえ、すぐ外へ吸われて消えていく。 セレフィアは、完全には眠れていなかった。 目を閉じて、浅い眠りのようなものへ落ちかけては、風のうなりや木の軋みでまた意識の表面へ戻される。寒さは最初よりいくらかましだ。ゼルヴァンの外套と、古い毛布の重みが肩と胸をしっかり包んでいる。足先はまだ冷えるが、指先へは少しずつ血が戻ってきていた。だから眠れない理由は寒さだけではなかった。 彼が近くにいるからだ。 そう意識すると、胸の内側がまた静かに騒ぎ出す。狭い小屋の中、火を挟んで向かい合うような距離。外では吹雪が止まず、朝までここを出られない。その「朝まで」が、思っていたよりもずっと長く、甘く、落ち着かないものとして胸へ乗っている。 目を閉じたまま、セレフィアは小さく息を吐いた。 好きだと認めてしまったあとでは、距離のひとつひとつが以前と違ってしまう。外套をかけられたこと。毛布を直されたこと。低く「眠れ」と言われたこと。そのどれもが胸の奥へ沈み、火の残り熱のように消えきらずにいる。 眠れないのは、きっとそのせいもある。「起きているな」 低い声が、闇の向こうから届いた。 セレフィアは目を開けた。 炉の火の向こう、ゼルヴァンがこちらを見ていた。彼は小屋の壁へ背を預けるでもなく、半ば腰を下ろした姿勢で座っている。見張りの

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     しばらくして、兵たちのうち二人がうとうとしはじめた。疲れと安堵が一度に来たのだろう。風の音は変わらず強いが、小屋の中には火のはぜる音と、時おり木が鳴る低い音、誰かの寝息の気配が混ざるようになる。 セレフィアは眠れる気がしなかった。 狭い空間、近い距離、外の吹雪、そして自分の胸の落ち着かなさ。その全部が、目を閉じても体の中でまだざわざわと動いている。「眠れないか」 低い声がした。セレフィアは顔を上げる。 いつのまにかゼルヴァンが少しだけ近くへ来ていた。火を挟んで真正面ではなく、斜め横。ほかの者を起こさぬよう声は抑えられているが、それでもきちんと届く距離だった。「……少し」  セレフィアも同じように声を落とす。 「風の音が」「怖いか」 その問いに、セレフィアは正直に頷こうとして、途中で止まる。怖い。吹雪はたしかに怖い。けれど、怖いのはそれだけではない。こんなに近くにいて、こんなにも彼を意識してしまう自分の心もまた、少し怖い。「風は、ええ」  結局そう答える。 「でも……」  少し迷ってから、息をつく。 「前ほどではありません」 ゼルヴァンの眉がわずかに動く。「前ほど」「最初の頃なら、たぶん」  セレフィアは毛布の端を指でつまむ。 「もっと、何も考えられなかったと思います。怖くて」 その「怖くて」が何に向けられているのか、あえて言わなくても彼には伝わる気がした。ゼルヴァンは少し黙り、それから火のほうを見たまま言う。「いまは違うのか」 セレフィアは返事をすぐにはできなかった。 違う。そう言ってしまえば、何かがあまりにもはっきりする気がした。けれど嘘もつけない。いま胸を乱しているものは、恐怖ではない。少なくとも、彼に向けるものとしては。 火が小さく鳴る。外の風が壁を打つ。 その音のあいだで、セレフィアはようやく小さく答えた。「……はい」 それだけ。 それだけなのに、ゼルヴァンはもうそれ以上は問わなかった。追い詰めることをしない人だ、とあらためて思う。知りたければもっと踏み込めただろうに。だが彼はそこへ手を伸ばさず、ただ「そうか」とごく低く返した。 その一言が、どうしようもなくやさしく聞こえた。 セレフィアは毛布の中で目を閉じる。風はまだ強い。小屋は狭く、火は小さい。朝になれば、凍った道をまた戻らなければならない

  • 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた   第19話 雪夜の小屋④

     兵たちはあえて見ないふりをしているらしい。視線を寄越さず、炉と水と携行食へ意識を向けている。その気遣いがありがたい。だがそれでも、狭い空間で彼の外套に包まれている事実は消えない。 しばらくして、火が安定すると小屋の中の温度はほんの少しだけ上がった。といっても、暖かいと言うには遠い。冷えが「痛い」から「鈍い」へ変わった程度だ。けれどその程度でも、体には十分だった。 兵の一人が塩気のある携行食と、温め直した水を回してくれる。木杯を両手で持つと、熱が指先へ戻る。セレフィアはそれを少しずつ飲みながら、外套の重みを肩で感じていた。自分のものより大きい。体に沿うというより、上からしっかり包まれる感じだ。重いのに、不思議と苦しくない。ただ、その布の下へ自分がすっぽり守られていることが、妙に落ち着かなく、同時にひどく安堵もさせた。 外では風が止まない。 木壁を何度も打ち、雪を擦りつけ、小屋全体を低く鳴らす。時折、何かが屋根を滑るような音がして、そのたびにセレフィアの肩がわずかに強張る。すると対面のベンチへ腰を下ろしていたゼルヴァンが、何も言わずこちらを見る。その視線が、ただ「大丈夫だ」と告げるだけで、セレフィアの肩は少しだけ戻った。 やがて兵たちは交代で仮眠を取る段取りを決めはじめた。狭い小屋だから、全員が横になることはできない。二人ずつ壁際で休み、一人は戸口と馬の様子を見る。ゼルヴァンも当然のようにその順へ入り、最後の見張りを引き受けた。「奥方様はこちらを」  年嵩の兵が古い毛布を一枚示す。 「火のそばがまだましです」 セレフィアは礼を言い、炉の横へ近い板の上へ腰を下ろした。ゼルヴァンの外套をかぶったまま、さらに毛布まで肩へかけられると、さすがに熱がこもる。けれど足先の奥はまだ冷えていた。 ゼルヴァンは少し離れた場所へ座り、戸口側を向いている。いつもより言葉は少ない。兵たちがいるせいだけではないだろう。狭い空間で余計な話をする必要がないのだ。だがその沈黙は、最初の頃のように息苦しいものではもうなかった。むしろ、風の音が激しいぶん、彼の黙ってそこにいる気配が、妙に頼りになる。 セレフィアは毛布の中で指をそっと握り、そしてほどく。以前ならこういう時、恐怖で体が固くなり、そのまま朝まで眠れなかったかもしれない。見抜かれた男と、吹雪の夜、小屋で過ごす。考えように

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     怖い、と思う。 だがその怖さは、最初にゼルヴァンへ見抜かれた夜の怖さとは違う。もっと直接的で、自然の大きさに対する怖さだ。自分の体があまりにも小さく、この風と雪の中では簡単に消されてしまいそうな怖さ。「セレフィア!」 吹雪きはじめた風の中でも、ゼルヴァンの声はきちんと届いた。 セレフィアは顔を上げる。前方で彼が馬を半歩寄せ、視線だけで体勢を確かめている。人前では奥方と呼ぶ彼が、この風の中で迷わず自分の名を呼んだ。そのことに、こんな状況なのに胸のどこかが先に反応してしまう。「ここから先は道が開ける。風がもっと強くなる」  ゼルヴァンが言う。 「その前の小屋へ入る」 見張り小屋とは別の、山道の途中にある避難用の小屋だろう。セレフィアは頷こうとしたが、風に叩かれてうまくできず、代わりに手綱を握る手へ力を込めた。 数刻にも思える時間だったが、実際はそれほど長くなかったのかもしれない。 白く乱れる視界の中に、ようやく低い屋根の影が見えた時、兵のひとりが扉へ先に駆け寄った。木の扉が押し開けられ、暗い口が開く。馬を繋ぎ、荷の一部だけを抱え、中へなだれ込む。風が後ろから雪を吹き込み、床へ白い粒を散らした。 小屋の中は狭かった。 石と木で組まれた簡素な避難小屋。広さは、六人もいればいっぱいになる程度だ。中央に小さな炉があり、壁際に粗い寝台板と、古い毛布が二枚。天井は低く、乾いた薪の匂いと、湿った羊毛の匂い、それから長く閉め切られていた木の匂いが濃くこもっていた。 兵たちは手早く火を起こした。乾いた薪と火打石。数度の火花のあと、小さな炎が草の束へ移り、やがて薪へ移る。煙が一度だけ強く上がり、狭い室内へ渋い匂いが広がったあと、煙突が働きだしたのか、ゆっくり上へ引いていく。 外では風が壁を叩きつづけている。小屋そのものが低く唸るようだった。扉の隙間から細く白い雪が吹き込み、床の端へ薄く積もる。「今夜はここだ」  ゼルヴァンが短く言う。 「無理に動かないほうがいい」 それが決定だった。 兵たちもすぐに動いた。ひとりは馬を見に出て、もうひとりは水桶を確認する。残りの者は炉の火を安定させ、携行食と水を取り分ける。その間、セレフィアは入口から少し離れた壁際へ立っていたが、足先から冷えが這い上がってくるのを感じていた。外套は着ている。手袋もしている。けれど吹

  • 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた   第19話 雪夜の小屋②

     道は最初、城下の外れを抜ける広い踏み固められた道だった。雪はもう端へ寄せられ、土と石が露出している。両脇にはまだ葉の戻らぬ木立ちと、雪を抱いた低い石垣。小さな農家の屋根には薄く白が残り、煙突から細い煙が上っていた。 城下を離れ、山裾へ近づくと、空気の匂いが少し変わる。土よりも石、石よりも雪の匂い。乾いているのに、水の気配がある。春の雪解けに近い、独特の匂いだ。 途中、橋板の様子を見るため何度か馬を下りた。橋はどれも大きなものではない。沢を渡るための木の橋。だがこの土地では、そういう小さな橋こそ人と荷を通す血管のようなものだと、セレフィアはもう知っている。ひび割れの入り方、板のたわみ、雪解け水の流れの速さ。ゼルヴァンは兵と短く言葉を交わし、必要な箇所へ手を入れる順番を頭の中で組んでいるようだった。 セレフィアも、少し離れた場所からそれを見る。記録の紙の上で見た「補修遅れ」が、こういうふうに実際の板の傷みや、沢の流れの冷たさに繋がっているのだと思うと、胸の中で数字の線がまた一本、現実の地面へ下りる気がした。「どう見える」 いつのまにか隣へ来ていたゼルヴァンが、視線を橋へ向けたまま問う。「思っていたより……」  セレフィアは言葉を探す。 「紙の数字より、音のほうが怖いです」「音」「板を踏んだ時の、少し沈んで返る音です」  彼女は沢の上へ視線を落とす。 「紙では遅れ一件としか書かれませんけれど、ここでは、一歩目でわかるのですね。これ以上遅れると危ない、というのが」 ゼルヴァンはほんのわずかに目を細める。「そうだ」  短い肯定。 「こっちは音と匂いと踏み心地で先に知る。紙はそのあとだ」 その言葉に、セレフィアは小さく頷いた。そうなのだ。だから自分は今、ここへ来てよかったのだとわかる。紙だけでは繋がらなかったものが、こうしてひとつずつ地面へ降りてくる。 昼過ぎまでは、本当に穏やかな道行きだった。 山裾の見張り小屋へ着いた頃には、空はまだ薄青く、雪の面は眩しく光っていた。小屋は石積みの低い建物で、見張りや休憩のための簡素なものだ。中には薪と水桶、干した薬草の束、古い毛布、簡単な炊事道具。人が命を繋ぐ最低限が、きちんとそこにあった。 ゼルヴァンは兵と小屋の周囲を見て回り、セレフィアは入口の脇で風を避けながらその様子を眺めていた。空気は冷た

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